昭和50年02月23日 朝の御理解
御神訓 一、「神の教へも真の道も、知らぬ人の哀れさ。」
どんなに栄耀栄華が出来る身分でありましても、どんな地位やら名誉、そして栄誉に輝くと言っても、真の道に、在る人の眼から見ると、それは危い危い。本当に一本橋を渡って居るのを、脇から見て居る様に危ないものだと言う事です。真の道を解り真の道を歩かせて貰う、こんなに素晴らしい事はありません。神様の眼からご覧になっても、そう言う、真の信心、真の道も知らぬ人のあわれさ、と言う事。本当にそのあわれさの一言に尽きる思いが致します。
そこで信心を、こうして頂いとる者が、皆んな真の道を解って居るかと言うと、解って居る人は大変少ない。おかげの道は解って居っても、真の道は解らない。それには又の御神訓にあります様に、疑いの心を離れて真の道を開き見よ、我身は神徳の中に生かされてあり、疑いを離れて行ける真の大道を頂くのは、我身は神徳の中に生かされてあり、我が身は神徳の那珂に生かされてあると、言う事の実感を解らせて頂いておる事が、解らせて頂く事が真の道を解った、と言う事になる。
我身は神徳の中に生かされてある話を聞けば、それが成る程と合点が行きます。我身は神徳の中に生かされてある、神様の言うならばおかげの中に、お恵みの中に生かされてあるだから心配はない、不安がないと言う生活が出来なければならんのだけれども、不安がある心配がある、まだ真の道を言うならば、神徳の中に生かされてあると言う事を、実感出来ていないからなのです。
私は今朝方私の婆に当たります、もう亡くなりましてからどうでしょうか、もう三十年も前になりますか、三十四、五年にもなりますでしょうか。今朝お夢の中に現れましてね、そして私を起こすんです。もう起きても良かろう、眼を覚ましても良かろうと言うて、私を揺り動かすけれども、もう睡たくて睡たくてもう目が開かんのです。手で自分でこう開けよるです自分で、ようやくあのー眼が覚めました。
眼が覚めましたら、私の枕元に坐っているのです。夢の中でですよ。やっぱり眼を覚ましたと言うのも夢なんです。その様子を見ると、もう亡くなる時が、九十三だったでしょうか、父と同じでした。夢の中に現れておるのは、まだ六十位の若さでしか見えない位。それも洋服とも和服とも付きませんけれども、水玉模様のまあ言うなら簡単服の様な物を来てる。それが夏物でもない、冬物でもないと言う感じなのです。
そして枕元でまあ色々、あのー私くし霊のお知らせを頂く時なんかはですんね、もう何んか身がズーンとするもんです。おかげを頂いてない霊に合う時には、所がねそう言う事、もう亡くなって霊と言う事が解っている亡くなっておる事が解っておる、三十何年前に亡くなっている事が解っているけれども、何か温かーーいものが感じ合うんです。そのそして婆が言っている事を一々私も合点しながら、有難い事ですねと返事さして頂いて、そしてもうなら帰らして貰うから。
さよならと言うてこう壁の中に吸い込まれる様にし、姿を消したお夢を頂いて本当に眼が覚めた。丁度三時十五分でした。何時も起きる時間。そんなお夢の婆のその姿の中から、私しは感じさせて頂いた事は、おかげを頂いておられるなあと言う事でした。水玉模様と言う事は、是は私は神様のお恵みだと思いましたね水玉と言う事。冬物でもなからなければ、夏物でもないと言う様な、衣類を纏っていると言う事は、それこそ暖かくもなからなければ寒くもないと言う、私は表現だと思うた。
私し共がおかげを頂いて、我身は神徳の中に生かされてあると言う事が、解らせて頂た信心はです、暑い事もなからなければ寒い事もない、勿論不安もなからなければ、心配もないと言う事なんです。何時も有難いと言う水玉模様。言うならば神様の御恵みの中にある事を実感させて頂く御霊の生活。御霊の生活、御霊の生活というだけでなくて、私し共がこの世での生活、我身は神徳の中に生かされてあると言う生活、そう言う生活とは、ならどう言う具体的に言うて生活であろうか。
二、三日前に若先生が、此処にお届けに出て参りまして、此処の新舘が出来ます時に銀行からお金が借りてありました。それを五ケ年計画で払う様になっとりました。それがまあだ二年半にしかなっとりませんのですけれども、全部支払いが済んだと言うのです。ほう有難い事ぢゃあるね、あれだけの合楽としては大金が、それが五年間で払わして頂くと言うても、おかげを頂かねば払える事ではない。それがもう半分言うならば五年掛かるのが二年半で済んだとは、まあ有難い事だなあと。ね。
神様にお礼を申さして貰わにゃねと言うて、それから神様にその事のお届けをさして頂いた。自分の言わば合楽教会の借金、それを一生懸命働いてそれを払うて行く、おかげで無事支払いが済みましたから、有難う御座いますと言う訳ですけど。それではね払う間が不安である。払えるだろうか又自分の我が出る。働かなければ借金が払えない。もう借金が払えておる払えてない、全然私しはもう大体経理の方には、もうノータッチですから解らない。只聞いて私自身もびっくりしているだけですから。
何時の間に払われて何時の間にどうなっとったか解らん内に払われて、借金が仕舞えてしまっていると言うのである。ソロバン握った事もなければ、さあー今月は足るの足らないのと思った事もない。そしたらね神様からそう言うそれはね合楽教会の借金ではなくてです、神様の借金だと、神様がその借金を持っておって下さったのであり、それが支払わして頂ける為に、私しは御用にお使いまわし頂いたんだ、その御用に使うて頂いた事を、お礼を申しあげる。
借金を払えた事をお礼を申し上げると言う事は、神様の分域に入った様なもんです。自分の借金と思うとるから、自分がお礼を言わにゃならん、神様の借金であれば、只その支払いの御用に神様の何時も申します様に、神様の手に足に私しを使うて頂いたと言う事が有難いのであって、借金払いが出来たのが有難いのではないと言う事になるのです。それが本当の御用と言う事であります。
だから其処の所がお互いスッキリさせて頂ける、おかげを頂かなければならんのです。もうこんな楽な事はない。我身は神徳の中に如何に生かされてると言う事は、そう言う事なんです。おかげで借金払が出来ました。まるきり自分の借金と思うとる、だから骨が折れる。所が借金は私しの借金ではない。合楽教会のものではない、神様が建てられて神様が借金をされて、そして建てられた。それが支払いが済んだ。神様だからお目出とう御座います、と同時にその御用に使うて頂いたと言う事は有難い。
意味は解るでしょうかその変の所の。もうこんな楽な事はないそれこそ暑くもなからなければ寒くもない、水玉模様の中言うなら神様の御神徳の中、恵みの中に浸っておる生き方なんです。それを宗教的なまぁ言葉で申しますと自我滅却と言う事になります。自分を空しゅうする滅却しておると言う事です。成る程我情我欲と言うものがあっては、そう言う境地は開けて来ないと言う事であります。自分の思い自分があヽしたいこうしたいと思うたり、自分で惜しいの欲しいのと言った様な欲を捨てると言う事です。
仲々それは難しい事ですけれども、そう言う私しは信心が段々本当なものになって来る。自分の物になって来る事の為には、ならどう言う信心をさせて頂いておったらそう言う境地が開けて来るかと言う事です。我身は神徳の中に生かされあると言う事が、理屈ではなくて実感として、丁度お風呂にでも入っとる様にひたひたと、此処にお湯の暖かさを感じる是は実感なんです。
皆さんがお風呂へ入って、あヽ極楽と思うでしょうあの実感なんです。顔をブルブルと洗いバチャバチャとお湯の音がする様な実感なんです。ね。理屈じゃないです。だからそう言う信心が、何時自分の物になっておったのか、何時私の物になっておったのかと、言う事を思わせて頂いて、仲々具体的にそれを説明が出来ないが、皆さんにもどうでもそう言うおかげを頂いて貰いたい。為にはどう言う信心を皆さんが、目指さして頂いたら良かろうかと、思わして頂いとりましたら、こう言う事を頂いた。
拝む喜び聞く楽しみ現す有難さと言う事を頂いた。拝む喜び皆さん兎に角信心さして貰うならね、御祈念をする拝む言う事がね、こよない楽しい物にならなければいけない。喜びにならなにゃいけない。只お役目済ましの様にポンポンと手を打ってから、そうしてこう休まして貰いまぁすと言った様なこっちゃいかん。 もう御神前で御祈念をば始めたら、もう立とうごとなかごとならにゃいかんだから稽古です是は。ね。その為に矢張り大祓いを五卷も十巻も二十巻も私共としては上げた時代も御座いました。
初めの間は拝もうごとなかっても、ね。五巻、十巻と大祓いを上げておる内にです、何とはなしに神様と交流する物を感じるのです。有難うなって来るのです。それが自我を滅却して行く稽古なんです。自我滅却の事を言うと、大変難しい様ですけれども、せめて拝んで居る時だけでもです。そう自我がない、その滅却されておるその心持ちがです、ね。言わば拝む歓びにひたらして頂くと言う事です。
此方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かると言うて下さるが、話を聞いたら今度は拝まなければ居られなくなるです。話を聞いて解れば解る程です、御神前に額ずかせて頂いたら、もうそれこそ立つ時間を忘れる位です、だから拝む為にゃ様々な一つ工夫もして見なければいけません。御神前に出らして頂く時にゃ先ずね、手口をゆすがせて貰うた。普段着の上であってもまあーエプロンの一つも取らせて貰う、前掛けも取らして貰うそして羽織の一つも引っ掛けさして貰うと是は工夫なんです。
御神前には明々と御神燈も灯さして貰う。お榊が生々とお供えがしてある。御神前には真心込めた神饒がしてある。お供え物がしてあるお掃除は勿論の事行き届いたお掃除がちゃんとしてある。そう言う様な私は工夫がいるんですまだ色々ありましょう。そして御神前に額ずかせて頂いて、玉串案の前に座らして頂いて、そして扇子を持たせて頂いてカチッと言う音をさせて頂く時の、ゾクゾクする様な有難さを感ずる。ね。
拍手一つにも思いを込めてさして貰う。ね。そして天津祝詞が奉上され大祓いが奉上される。そして心行くまでの御祈念をさして貰う、先ず拝むそうとした歓びが信心、是は一切の宗教に言えれる事なんでしょうけども、祈念と言う事は一切の宗教にあるもんだと思うんですよ。だからその御祈念の歓びと言う物がね、身に付いて来なければいけません。是は稽古ですから工夫して、色々に工夫して見なければいけません。そして言うならば教えを頂くそして拝聴すると言う事、御理解を頂くと言う事。
是が又こよない楽しみでなければいけない。そして毎朝お参りさして頂く楽しみも、もう御理解を頂かずして帰ると言う事は、買物をしに行って、買い物をせんで帰る様なもんだと、私は思うです。しかも一遍ではない、今の合楽食堂の中村さんなんか日に十回はカセットに入れてある。何時もずうっと御理解が流れておる。食堂ですからお客さんが見えると、やっぱりお客さんも聞かれる。毎日毎日があんたげには、こげなお話がこげな話しがどっから出るじゃろかと言うて、不思議がられるそうです。
それがあなたもう二十何年間、それこそ同じ話ちゃ一遍もありませんよ。毎日毎日新らな毎日毎日、はぁ初めて聞いたと言う様な話を、聞かせて貰う。しかもなら私共は十遍もこうやって聞かして貰うがじゃ、聞くたんびに新な事が解らして貰う。あヽ本当にそこが解ってなかったと言う事を、又改めて解らせて貰うと、毎日お届けをしとられます。ね。言わば聞く楽しみが、愈々身に付いて来よる訳です。ね。拝む事に歓びを感じ、聞く事に楽しみを感じさせて貰う。
そしてその教えが身に付いて、それを現して行く所の有難さと言う物が、身に付いて来る。是が自我を滅却して行くと言う大変難しい様ですけども、何時の間にかそれが出来て来る。勿論是は我情だろう我欲だろうと思う事があります。どうぞ右になります様に、左になります様にと言うて願う事は、それは一つの我情でしょうけれども、お取次を頂いてお願いをしたら、もうそれから先は、神様に委ね任せておられると言う事なんです。私はお取次を頂くと言う事は、そう言う意味でもです、ね。
自我を滅却させて頂く為の、一つの方法だと思います。それにお取次を頂いて、お願いをしておるにも係らず、まあだ心配でならん、不安でならないと言う所が、まだ信心が未熟だと言う事を知らなければいけません。お願いをしてある事だから、お取次を頂いての事だからと、そこに安心が頂けれるそこにです、我身は神徳の中に生かされてあると言う事を、はっきり解らせて貰うのです。
昨日は古屋さんの所の御主人が亡くなられて、丸三年になります。三年の式年祭が御親戚の方達が皆んな集まって御座いました。まあ本当に有難い霊様のお祭りと言いたいのですけど、本当に有難いと言うじゃなくて、只有難いと言うお祭りでした。それは例えば、古屋さん、此処の御造営のあった時に、一番始になら新築の方もやっぱりそうでしたけれども、設計をなさった有名な設計士の方です。末永先生の叔父さんに当たる方です。もうそれこそこちらに甥姪がありますから、むつ屋は姪になる訳です。
喜久男さんそれから末永先生。もうそれこそ自分の所の霊様のお祭りの様に、前日からその準備に、お供物を買いに行ったりいろんな準備を致しとりました。二時からのお祭りでしたけれども、一寸時間がおくれて三時過ぎからになりましたが、あちらは親子で参りました。本当にお父さんが亡くなられて、お母さんの働き一つで息子を大学にやっとります。今年が卒業でしょうか。ですから決して楽な事はない。それこそもうー保険の外交をしとられますが、その間には、毎日ヤクルトの配達までされました。
もう女も一生懸命になったら、どんな働きでも出来るですね。それでもう愈々息子も愈々卒業と言う事になりましたから、先月からヤクルトの方の言わば毎日配達をして回らねば成らん、其だけは止められました。ですから本当になら御霊様のお祭りを、三年の式年祭をさせて頂くと言う事でも、それは中々信心も巧者なお方ですから。あヽもせんならん、こうもせんならん事は、よう解って居られるのですけれどもです、手駒がまわんね、自分の思う様な事が出来ない事に、まあ残念を感じておられるだろうと私は思いました。それで次は五年祭そして次の十年祭の頃には。
息子さんが今大学に行っている。誠さんと言いますから、誠さんがね十年祭を仕える頃にはもう奥さん貰うとるだろう、恐らく子供も出来とるだろう、そして良い所に就職のおかげも頂いてです、それこそ、思う存分の式年のお祭りも出来る様になるだろう。まあ言うならば、今は古屋一家の上にお試しの時代だと言って、昨日の御理解を、その一部を話させて貰ったんです。
私が四年半と言う椛目時代の四年半という間がです、本当にお試しの時代であったと思われる様にです、今はそう言うお試しのあっておる時代だ。だから此処ん所を一つ言うならば修行時代だ、お父さんが亡くなられて三年、あヽもしたいこうも有たいと思うけれども、仲々そんな訳にはいけない。ね。それがですそう言う思い方がする時代はです、まだまだ言うならば我が身は神徳の中にある事を、兎に角自分の自我で一生懸命働いて、一生懸命子供が勉強の為に学費を稼がんならんと言う様な時代なんです。
そう言う時代に拝む事お話を聞く事そしてそれを現す事の、いわば稽古を本気でさせて頂かねばならない時なんです。私は今此処二三日二十年振りに足に坐りダコが出来とりますのが化膿しましてね坐られんのです。だから此処にすけ物をしてから今日は坐っとる訳ですけどね。ですから普通の足袋が履けない訳ですこう腫れてる地膨れしてますから。そしたらあの公子さんが先日からあのう、むつ屋から末永さんが大きいからこの大きい足袋が入ったからこの大きい足袋を履いて下さいと言うてから持って来た。
それが何と十二文あるあんな足袋は初めて見た。だからそれはスーッと入る訳なんです。思うて見れば思うて見る程おかげ頂いとるなあ、つい近頃から親先生が亡くなられた告別式をするまでまで、毎日五日間紋付き袴で出掛けましたが、その時にはとてもこげな足袋は履いていかれない。ね。いえ履いて行かれんことはないけれども、こげんおかしい事はなかろうと思うた。
だけぇ坐っとるだけだから良いのですけれど、神様の御都合ちゃあれも済これも終わってよい時に、丁度二十年振りではあるけれども、足に言わば坐られない様な、坐りダコが化膿して、そこにはもう其の為には準備してあるかの様に、十二文の足袋が履き替え共に二足、例えば此処に来ておったと言う事です。その事が私は大変有難いと思うが、今日の霊様のお祭は、丁度その十二文の足袋を履いてるような、お繰り合わせの中に頂いておるお祭りの様だねと言うて、話した事でした。
キチッとしたもんじゃない、見るならまだ可笑しい、けれどもそれで痛い所もあり、痒い所もあるのだけれどもです、矢張り足袋をはいておられると言う事なのです。そう言う御都合お繰り合わせ、それは痛い事も痒い事もです。ね。私の場合はおかげの中におかげとして感じておると言う事なのです。是が何日か早かったら大変困っただろう。いや是がこう言う事になった時に、もう既に十二文の足袋が此処に来ておったと言う、そう言うお繰り合わせの中に、我身は神徳の中に。
熱いもあれば寒いもあるんだと解らせて貰う、そう言う事実がね、おかげの事実がそこに現れておらなければ、我身は神徳の中に生かされてあるとは言えないのです。ね。もし私が足が痛くて足袋もはけないで、御神前に進まなければならない言う事になったならば、我身は神徳の中に生かされてあると言う事ではないです。それは其処からはみ出している、一寸可笑しいと言う事になるのです。
我身は神徳の中に生かされてある、神様の懐の中にある、痛い時には擦って貰い、痒いときには掻いて貰えれる、そこに御神徳の中にある喜びを感ぜずには居られないでしょう。そう言う例えば生活が出来る、そしてならそう言うおかげの受けられる事実をです、私が体験して、そう言う事実をまだ持たない人、真の道に居りながら、真の道を踏まんでおる人、真の道を解らせて頂く事に、精進しておられる皆さんにです、皆さんにどうでもこの真の道を解らせて貰うてです。
それこそ真の道を知らぬ人の哀れさではなくて、真の道を知って行じて行く者の喜び有難さと言うものを味わいながらです、信心を進めて行くと言うおかげ、そして何時の間にか我情がとれ我欲がとれ、お取次を頂きながら、我情が取れて行っておる。お取次を頂きながら我欲が取れて行っておる。そして何時の間にかです、神様のかげを頂かなければ出来んのだからと言う思い込みも、段々強うなって自分が如何に我情我欲をして、ばたばたした所でです、どうにも出来る事ではない。
愈々御神縁、昨日の御理解から、ね。神の心に反した生き方から、御神意に添う生き方に変わる事が、是が改まりだと言う事を昨日頂きました。ね。神の心に反した生き方から、神の御神意にそう生き方に変わると言う事が、改まると言う事。最高の人格とは神の意志に従っての生活をするもの、それを最高の人格だと言うのが、昨日の御理解でした。最高の人格を目指さして貰い、神様の心に愈々添い奉る生き方をです、我情がある我欲がある、それをお取次を願わして頂きながらです。
神様に委ね任せる心の状態、それが我情を捨てた姿である。そして此処では我欲を言う事が、どんなに詰らない事かと言う事が、段々解らして頂いて来る内にです、真実の御用が出来て来る様になる。此処で言われる、五つの願いどうぞ一つ体の丈夫を頂かして下さい、ね。その為にはですね、例えば私の場合であるならば、大酒大食を慎みますと言う行き方をさせて頂きながら、体の丈夫を願う。大酒大食をしながら、どうぞ体の健康をねがうと言った様な事があって良かろう筈がない。
体の丈夫を願うからには、矢張りそう言う修行もさして貰わにゃならん。信心は家庭に不和のなきが元と仰せられますから、どうぞ家庭に不和のないおかげを頂かして下さい、そのためには私が、ね。例えば私がお前はそう言うことで良いか悪いかと言うて、人を責める様な事があって、人どん責めながら家庭の平和を祈った所で、おかげの頂ける筈はありませんだから私は絶対に責めません、子供も責めません、家内も責めません信者もせめません、そして私は家庭の和を願っている。
家庭円満のおかげを頂かして下さい、て言いながらですもう人の非ばかりが見える、人を責めない責め立てる様な事をしながら、どうぞ家庭の和を願ったって、おかげの頂けれる筈はありません。どうぞ子孫繁盛家繁盛を願わして貰う、からにはです例えば私がね、必要でない物を買ったり、無駄使いをしたりする様な事があってはならんから、そう言う事は決して致しませんから、愈々家繁盛子孫繁盛のおかげ頂かして下さいと言うて願うのです。繁盛のおかげを願いながら。
金があればすぐパラパラ使うてしまう、ものでもお粗末な使い方をして、家繁盛子孫繁盛願ったって、本当のおかげになる筈はありません。そしてどうぞ本当の御用が出来る様に、その御用の内容を解らして下さいそれが四つ目です。その本当な御用と言う物がです、今日は私は其処ん所を実は聞いて頂いたんです。本当の御用とは、ね。合楽のこのお教会が出来た、是は合楽教会の大坪が建てたと言うのではなくて、神様がお建てになったんだ。五年で払わなければならない借金が、二年半で済んだんだ。
私の働きもたいしたもんだと言った様な事ではなくて、又は神様おかげを頂いて有難う御座いました、ではなくてですそう言う神様の、例えばお広前であり、神様のお教会なのですから、借金払いの御用に私が使うて頂いただけなんです。だから支払いをして頂いて有難いと言うて、お礼を言う事ぢゃない。支払いが出来ましたと言うてお礼を言う事じゃない、私自身が御用に使うて頂いた事を、お礼を申し上げると言う事がです、私は本当の御用だと思います。ね。
商売が今日は大変売上が多かった。本当に今日は沢山の売上を頂いて有難う御座いましたと言う間は、それは自分の店と思うとるからです。ね。沢山な今日は売上があった。今日は本当にチンチロ舞いをする程お使い廻し頂いて有難う御座いましたと、今日は沢山の売上がありまいて。神様お目出とう御座いましたと言う様な状態が、心の中に実感される時に、あなたは本当の御用が出来ておると言う事になるのです。ね、そう言うおかげを頂く為にです、所謂自我滅却、神の教えを解らしてもらう。
そこに真の道がはっきりしてくる。そこから何時の間にか我情が離れ我欲がとれて行く、真の道を我が身は神徳の中に生かされて有る事をはっきり自認する事が出来る。自分でそれを認める事ができる。そう言うおかげを頂かして貰う。神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。信心の無い人達の生き方がです、どんなに調子よく行っておっても、それを真の道にある人から眺めたら、それこそ本当に一本橋の上を渡っている様に危険を感ずる。危ない危ないと声をかけて上げたいのだけれども。
本人は平気の平座である。そう言う姿が神様の目に哀れな事だと言われるのじゃなかろうか、愈々おかげを頂いて本当の御用が出来る。ね。昨日、原さん所の娘さんが、今久留米でうどん屋をやってます。有馬うどんですか、昨日お礼に出て参りましてから、今朝方からお夢を頂いた、親先生がいまから舞いを舞われると言うので、舞い衣装と変えておられる。そしてその脱ぎ捨てられたその着物と言うのが。
あれが縮緬と言う生地でしょうか、コバルト色かの、もうそれこそドスドスする様な着物を脱ぎ捨てられて、舞い衣装と変えられる所を頂いたから、私がその着物をたたませて頂いておる、お知らせと思われるお夢を頂いたと言うのです。だからそれはね千恵子さん、私は本当に世界を舞台に舞いたいと思うておる。本当に世界を舞台に、所謂和賀心時代を世界にと言うのは、世界と言う舞台に大きな舞いを舞いたいと思うておる。その為には沢山の人が、その御用に使われなければならない。
お金が要ると言う時には、お金の御用をさせて貰う人がおらなければいけない、今言う様に私が舞うために着物を脱ぎ捨てたつ、その着物を整理する、言わば人も居らなければならない。それこそ手になり足になって下さる方が沢山必要なのだ。舞台裏を承わる人もあるだろう。言うならばそう言う御用にでもです、使うて下さいと言う様なおかげを頂かねばいけない、今のお店がまだ協同でやっとりますから、そんな訳にはいかんだろうけれども、行く行くはこの有馬うどんと言う、そのうどん屋がです。
神様のお店として神様のお役に立つ店として、お引き立て頂ける様なおかげを頂かして下さいと言う願いを持たなければいけない、と言う御理解でしたが。ですから今日の御理解を、真実の御用と言う事を解らせて頂く事の為に、言うならば教会の御用、私の手になり足になりする様な、御用をさせて頂きながら、本当の御用とはこう言うもんだと言う事が、解らせて頂けると言う事にもなると思うのです。是は自分自身が頂いてる、例えばお店ならお店がです、高芝さんがなら此処におられるが。
高芝商店というのではなくてです。神様のお店としての言うならばおかげ、売上げがあったときには神様におめでとうございますと言う、今日売上が大変あって有難うざいますと言うのは、是はまだ自分の店の時ですからと言うてなら、今日から神様お目出とう御座いますと、内容も解らずに、口で言うただけではいけん所に言うならば稽古が要るのです。口で言うだけなら今日から今からでも出来ます。借金をもう神様今日からもうあなたの物と思いますからと、言うて良い訳なんです、実感としてそれが本当に。
二、三日前神様が私にね。御用に使うて頂いた事が有難いと解る様な、私は内容の御用でなからなければならない。一遍に聞いて解る事ではないけれども先ずは一つ拝む喜び聞く楽しみそれを現す有難さと言った様な物身に付けながら、ね。神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと、神様の是はお嘆きですけれども神様のお嘆きではなくて、神様のお喜びを変えれる、頂けれる信心に進まして頂く事を願いとしての信心でなからなければならないと言う事です。
どうぞ。